呉清源 今現れてもやはりトップ棋士 心の祖国は囲碁

February 23, 2015

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[原文URL} http://sports.sina.com.cn/go/2015-02-13/12217516909.shtml [※翻訳者の中国語レベルは極めて未熟ですので、この記事を何らかの情報ソースとして使うことはご遠慮ください。なお、正確さに特に自信のない訳文については、下線を付してあります。] (新浪体育訊より) このあいだ、「じゃんじゃん三人行」[中国の人気トークショー番組]に、棋士として著名な江鋳久氏がゲストとして招かれ、囲碁の泰斗、呉清源についての思い出を語った。呉清源の棋道の追求は効率の追求である。いま、呉清源が20歳の若者であったら、やはりトップ棋士になるだろうか。 竇文涛(ホスト): 江鋳久さん、本物にお会いできました。80年代に何度かブームが起こりましたが、日中スーパー囲碁で、江先生は日本のトップ棋士5人を殺し、いや、倒しました。あの頃は誰もが先生を追っかけていましたね。 江鋳久: ああ、そうですか。 竇文涛: その後調子を落とされたようですが、またしばらくしたら、芮乃偉さんの夫になっていました。 江鋳久: ははは。 竇文涛: 芮乃偉さんはすごかった。女流でありながら、韓国のイ・チャンホに勝った。だから先生はご夫妻ともに囲碁界の偉大な人物であるわけですが、今日は同じように非凡な人物、呉清源さんの話をしましょう。 呉清源の囲碁 自然であることを重んじ、効率を求める 竇文涛: まず素人としての感想を言わせてもらうと、囲碁は私たち打てない者にとっては武侠小説と同じで、打てなくても、当時囲碁について喜んで語っていたものです。そもそも囲碁というのは「勝負」です。呉清源先生の棋譜を誰もが並べていました。聞くところによると、呉さんが当時打った碁、勝った碁は、形がとてもきれいだったそうですね。しかし勝負に、きれいだとかきたないだとかがあるのでしょうか? 江鋳久: そのご質問は、ちょっと答えに困りますね。私はこういうふうに理解しています。さっき話に出てきたイ・チャンホさんや林海峰先生、小林光一さんたちはみんな実利派です。武宮正樹先生は「宇宙流」ですが、「我々がいま打っている碁は呉先生あってのものだ、先生が道を開拓してくださったのです」と言っていました。いまの日本の六冠王、井山裕太さんも呉先生の葬式に参列したときに、「以前呉清源先生の棋譜を勉強して、いま自分が打っている碁が呉清源先生の碁だと思った」[原文不明]と言っている。呉清源先生の碁は自然であることを重んじ、効率を追求している。今挙げたいくつかの流派も、みな呉清源先生の碁に学んだものかもしれません。 竇文涛: もし呉清源さんと今の若い世界チャンピオンが対局したら、どちらが勝つでしょう? 江鋳久: 今の若い棋士に勝つことはできないでしょうが、ただもし呉清源先生が20歳の若者であったら、誰も勝てないでしょうね。 竇文涛: どういうことでしょうか。囲碁の技術は時代とともに進歩しているのではないですか? 江鋳久: もし呉清源さんがまだ20歳だったら、あの創造力があります。川端康成も「新布石は単に大陸からもたらされたからこそ、あのような風格をそなえたものとなった。彼が大陸で受けた文化薫陶によって、あのような創造精神が生まれた」[原文不明]と言っています。これは呉先生にしてみれば、まったく意識せずに、自然にやっていたのだと思います。呉先生は常に最善を追求していたので、実利を求めたり、大模様を築いたり、乱戦といろいろ試していましたが、すべては最善の打ち方の追求ということだったのでしょう。 竇文涛: 求道ですね。 心の祖国は囲碁 三人は呉清源が十番碁で無敵であり、17年間絶対的強者としての実力をそなえていたことを語った。江鋳久は次のようなエピソードを語った。本因坊を九連覇した高川格は呉清源と打てることを光栄に思い、おごそかな気持ちで臨んだ。当時高川の戦績は日本最高で、「高川格はノーベル賞をもらえないのか、人類最高の智能の持ち主なのに」と言う人がいた。それに対して「ならば呉清源先生はどうなんだ?」と問われるとその人は「ああ、あれは日本人じゃないし」[原文不明]と答えたという。 竇文涛: 日本人といえば、呉清源先生は日本国籍を二回取得しました。一生の間何度も日中を行き来し、抗日戦争も経験しました。しかし私はある日本のメディアの人が「呉清源にとって、心の祖国は囲碁なのだろう」と言ったのを興味深く思います。 竇文涛: ただ、呉清源さんが北京にきたとき「わたしたち、わたしたち」という言い方をしていました。 江鋳久: 典型的な北京訛りでしたね。「ちいとこの碁見てみい」というような言い方をしました。 生活について 組織に取られた賞金 呉清源は非常に若いときから、家族を養う責任を負っていた。11歳で父が亡くなり、家族全体の生活が呉清源の囲碁の奨学金頼みとなった。妹と、後に南開大学に進学する兄の生活費もそれで賄ったのである。後に十番碁を打つようになってから、確かに賞金は高かったが、全額「組織」に取られてしまった。呉は当時、「璽光尊」という宗教組織に入り[宗教組織の名称は璽宇教、璽光尊は教祖]、呉の岳父もそれに付き添ったのだが、結果対局の賞金をすべて組織に持って行かれてしまった。後に税務署の人間が呉清源を探してきて、「あなたの賞金はすべて持ちだされたが、税金は払われていない」と言った……。 竇文涛: 呉清源はとても聡明な人だったのでしょうが、対局の賞金をすべて人にあげてしまった。しかも璽光尊の女教祖は彼を利用していたのでしょう。呉さんは自分ではわかっていなかったのでしょうか。 江鋳久: わかっていなかったのでしょうね。実は当時、呉清源さんはあまり十番碁を打ちたくなかった。教祖が碁を打つのは組織の利益にならないと言うからです。ところが読売新聞から交渉のやり手が璽光尊の教祖を探して「対局の賞金はこんなに高額だ、もし勝てば全部あなたたちに払おう」と伝えたのです。璽光尊はすぐさま呉清源に「打ちなさい、組織の代表として!」と命じました。 嘉賓李菁: 東京に行ったとき、呉清源の伝記を書いた日本の記者に会いました。彼によると、このあたりの生活の話についてはあまり触れられたくなかったようです。この件についてはやはり、否定するかあるいは認めないという態度だったのでしょう。呉清源さんは基本的にこういう激しい態度をとる人ではありませんから、この件についてはある種の後悔をしていたのでしょう。 Advertisements

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柯潔「大帝」 11歳で運良く入段して嘗めた辛酸

February 19, 2015

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[原文URL] http://sports.sina.com.cn/go/2015-02-03/12217506909.shtml [※翻訳者の中国語レベルは極めて未熟ですので、この記事を何らかの情報ソースとして使うことはご遠慮ください。なお、正確さに特に自信のない訳文については、下線を付してあります。] 2015年2月3日 信速時報 17歳4ヶ月の柯潔は、自らの天賦と努力によって、「名を成すならば早いほうがよい」という言葉の本来の意味深長さを証明してみせた。 1月14日、第二回「百霊杯」世界囲碁オープン戦の決勝第五局は広東省珠海市にて幕を閉じた。白番の柯潔四段が272手まで邱峻九段に中押し勝ちをおさめ、3勝2敗で優勝を勝ち取った。これにより、柯潔は世界戦で優勝した16人目の中国棋士となり、180万元の賞金を獲得し、飛び付けで九段昇段となった。 柯潔には多くの呼び名がある。ネットで打つときは「潜伏」というハンドルネームを使っている。少年ナショナルチームでの勝率が極めて高かったのでチームメイトは彼を「柯鎮悪」[金庸の武侠小説『神雕剣侠』の登場人物]と呼んだ。だが囲碁ファンは好んで彼を「柯潔大帝」と呼ぶ。 柯潔は間違いなく、「七小龍」[1976年前後生まれの、常昊、羅洗河、周鶴洋、王磊、邵煒剛、劉菁、丁伝の7人]と「五小虎」[常昊、孔傑、劉星、謝赫、王堯の5人]の後に続く、新しい世代の第一人者であり、中国囲碁界の未来と希望を背負って立つ存在である。 胎教の「薫陶」により現れた神童 1997年9月生まれの柯潔の、囲碁との出会いは、母胎にいるうちから始まっていたと冗談めかして言う人がいる。 柯潔の父、柯国凡は浙江省麗水市の水利工事技師であるが、大の囲碁ファンで、余暇はすべて囲碁に費やし、アマ4段ほどの実力があった。柯潔の母、周柳蓱も碁を打てる人で、市の主催する囲碁大会で成人女子の部ベスト6にまで入ったことがあった。 妊娠してから周柳蓱は仕事を辞め、大きなお腹を支えながら一日中自宅でやっていた碁会所で過ごしていた。そのため、母が10月に妊娠したときから胎児の柯潔が母胎のなかで何よりも耳にしたのは囲碁の音であろう。生まれてきた後は、柯潔は何よりも白黒入り交じる碁石で遊んだ。 2003年9月、6歳の柯潔は師匠の周宗強五段について正式に囲碁を学び始め、すぐに同じ歳の子供の中で頭角を現した。2004年8月、周宗強が湖州に囲碁を教えに行ったとき、柯潔の指導を麗水市のトップ棋士だった鄭一兵に頼んだ。鄭一兵は、他の子供が打ち終わって遊びに出かけているときに、柯潔が一人で静かに碁石を拾い、片付けている様子を見て一目おくようになった。 柯潔は囲碁に夢中で取り組んだので非常な速さで上達した。2004年10月に初めて参加した地元の大会では、16歳以下の部で優勝を果たした。12月に浙江省金華市義鳥で行われた滁州杯では5位となった。2005年2月、囲碁を始めてわずか一年ほどで、浙江省こども囲碁大会の乙クラスでまたも優勝してしまった。 このとてつもない上達の早さのために持ち上げられたこともあって、両親は柯潔を北京の聶衛平囲碁道場に通わせることに決めた。しかし当時の「北漂族」[北京出身ではないが北京に拠点をおいて暮らしている人々]の子供たちはみな柯潔よりも年上で、そのうえ基本的には、アマ三段以上の実力がなければ聶衛平道場に入って学ぶ機会は得られなかった。そのため、道場の責任者コーチである袁衛紅は、柯潔を道場での成績がやや上位の子供と打たせてみた。結果は柯潔の二連勝で、柯潔は道場に入ることになった。 11歳で初段になりプロ碁界へ 1999年に始まった聶衛平囲碁道場は、聶衛平九段を総監督として、兪斌、鄭弘ら国手がコーチを務めており、すでに数十名のプロ棋士を輩出していた。ここで柯潔は飛躍的に棋力を伸ばし、2007年、9歳のときに全国少年囲碁選手権大会で優勝を果たす。2008年、10歳で第25回世界青少年囲碁選手権大会の12歳以下の部で優勝。入段後は、2011年の第28回応氏杯世界囲碁選手権青年の部で優勝している。 2008年に柯潔は入段したが、そのときは少し回り道をしている。2008年7月、11歳のとき、プロ試験で13局打って9勝4敗の成績を収めた。順位は17位で、入団できるのは16人だけだった。だが、プロ試験の規定では、男子はまず上から12人が初段の称号を得て、そして13位から20位の者のうちから、15歳以下(1993年以降生まれ)の4名が棋士として採用されるということになっていた。この規定のおかげで、1997年9月生まれの柯潔は、幸運にも入段の最後の一つのイスを獲得したのである。 2008年、柯潔はプロ棋士となり、雲南チームと契約し、その後は雲南チームの各種棋戦出場に付き添って全国各地に赴いた。だが入段して数日のうちに、失敗を重ね、年若い柯潔はもう囲碁をやめてしまいたいと思うこともあった。 「プロとして打つとなると、感覚がまったく違いました。いきなり別世界に連れて行かれて、みんなものすごく強い」柯潔は他の人と同じように努力したが、対局のときは相手のランクが100位以上であったり、ときには20位以上であることもあった。柯潔は、200位から300位の間をウロウロしていた。成人した棋士相手に、柯潔は負かされに負かされ、結果一年後には、個人戦と段位戦の2つの大会でしか打つことができなくなっていた。 柯潔はこの頃を思い出して、幸いにも自分が人一倍負けず嫌いで、強くなってやるという思いがあったので、なんとか乗り越えられたと言う。 ようやくプロの棋戦に慣れてきた柯潔は、2013年の甲級リーグ第17局以降、6連勝の成績を上げてその年の棋戦を終えた。2014年のシーズンで大連上方衛業チームに移ると日の出の勢いとなり、チームが4勝するのに貢献したばかりでなく、甲級リーグの新記録をも打ち立てた。個人では18勝2敗(12連勝含む)の成績で、14年の甲級リーグMVPと最高人気賞を獲得した。 個性あふれる「柯潔大帝」 今の柯潔は、棋士仲間の間でたいへん人気者であるが、それは彼が強いからというだけでなく、彼の明朗な性格とも切り離せない。柯潔はインターネットで人に教えるときも個性的である。囲碁ファンたちと大胆に影響しあうだけでなく、大らかに自分の失敗を自嘲してみせる。ときたま、一部の囲碁ファンにとっては最大の関心事である某名人のゴシップを暴露してしまうこともある。 1月17日の、柯潔の微博(ウェイボー)での初めての投稿を読むと、彼が他の人とは違っているということがわかるだろう。「こんにちは。陽気で背が高く、金持ちでイケメンの柯潔です。もともと微博はやらないつもりでした。ファンがこんなに多いと、嫉妬する人が出てきて不測の事態に巻き込まれかねないからね。でも、世界戦で優勝しちゃったら怖いものがなくなりました。子供のときの夢を達成してしまった以上、ぼくがカッコよくてお金ももっているからと妬んで悪意を持つ人がいても、心配することはないのです。人生自古誰無死、留取丹精照汗青! (人生古より誰か死無からん。丹青を留取し汗青を照らさん[南宋の文天祥の詩の引用]) あと僕は『愛すべき馬鹿』ではないからね」 いかがだろう? これだけでも十分だが、歯に衣着せぬ柯潔はもっとすごいことを言っている。井山裕太と争うことになった去年の阿含桐山杯決勝戦の記者会見で、柯潔は他の棋士のような社交辞令は言わず、自信満々に言った。「5手で倒す!」 結果、柯潔は願いどおり、人生で最初の国内大会優勝を果たした。 その自信と若さ、非凡な棋力のために、柯潔は棋士仲間から「柯潔大帝」と呼ばれている。だが実は、柯潔が自分で最も気に入っているあだ名は「潜伏」なのだ。ネットで碁を打つときも、「潜伏」のハンドルネームを使っている。「潜伏」には、黙々と努力をして、自然と外に出る嚢中の錐という意味がこもっていると柯潔は言う。 柯潔の成長は、時代に恵まれたためでもある。インターネットの普及に伴い、囲碁は新時代を迎えた。数年間、柯潔はほとんど毎日ネットで国内外の強豪を相手にし、全部で4000局を打った。「潜伏」して5年目に、満を持して実力を発揮し始めた。2014年、サムスン火災杯世界囲碁大会ではベスト16入りし、天元戦では準優勝した。中国甲級リーグ最優秀新人賞を獲得し、百霊杯で優勝…… 10年囲碁をやってきて、最大の収穫は心境が穏やかになり、浮わつくことがなくなったことだと柯潔は言う。囲碁のおかげで開けたものの見方ができるようになり、つまらないことにこだわることがなくなった。これが大局観というものだろうと。「たくさん負かされて、道理というものがわかってきた。あれこれ心配していると、かえって失敗してしまうものだ」 いまだ17歳の柯潔の今後の目標は、中国囲碁界を束ねる人物になることだという。「実現するかどうかにかかわらず、努力して、もがいて、そうすれば後悔はない」

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「95後」世代の優勝相次ぐ快挙 中国の少年棋士が世界囲碁界を震撼

February 17, 2015

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[原文URL] http://sports.sina.com.cn/go/2015-01-21/09527491024.shtml [※翻訳者の中国語レベルは極めて未熟ですので、この記事を何らかの情報ソースとして使うことはご遠慮ください。なお、正確さに特に自信のない訳文については、下線を付してあります。] 「参考消息」ネット版 1月20日のニュース――世界における囲碁のトップ層の中心軸は、非常な速さで中国の10代の棋士たちの手に渡っている。17歳5ヶ月の柯潔が、1月14日に終了した第二回百霊杯世界囲碁オープン戦で優勝した。范廷鈺(18歳5ヶ月)、ビ昱廷(19歳)とあわせて、囲碁の国際戦で優勝した中国の10代棋士は3人になった。 以下は韓国の「朝鮮日報」の1月20日の報道である。[どこまで?]柯潔は今回の決勝戦で33歳のベテラン邱峻を3勝2敗で破った。柯潔は1997年生まれで世界戦を制覇した最初の棋士となった。最初に世界戦で優勝した年齢でいえば、イ・チャンホ(16歳6ヶ月)、范廷鈺(16歳7ヶ月)に継いで史上三番目の若さであり、パク・ジョンファン(18歳7ヶ月)、イ・セドル(19歳5ヶ月)を超えている。 わずか2年前には、プロ碁世界戦の優勝者の半分が10代の棋士になることなど絶対にありえなかった。そのころの世界は、29歳のイ・セドル(サムスン火災杯、春蘭杯)、26歳のペク・ホンソク(BCカード杯、テレビアジア選手権)がツートップとして囲碁界に覇を称えていた。また、応氏杯、LG杯で優勝したチェ・チョルハン、江維傑はそれぞれ27歳、21歳だった。 朝鮮日報は、問題は10代の世界戦優勝者が中国ばかりから次から次へと現れるということだとした。14億もの人口、国全体での囲碁の盛り上がり、体系的な英才教育、この三要素がすべて作用した結果だと分析している。前述の世界戦優勝者の三強の他にも、強い10代棋士が何人も、韓国[「中国」の間違いか?]の国内棋戦で優勝している。「95後」(1995年以降生まれ)の棋戦優勝者がルオ・シエン[誰?]しかいない韓国とは実に対照的である。 バトンが「90後」から「95後」の棋士に引き継がれようとしている中国とは異なり、韓国は相変わらずイ・セドル、キム・ジソク、パク・ヨンフン、チェ・チョルハンら80年代生まれの棋士に頼りきりだ。「90後」の切り札クラスとなると、パク・ジョンファン(93年生まれ)がやや注目を浴びているくらいである。韓国の主力部隊と中国の現役世界戦優勝者たちの平均年齢の差は10年以上ある。 昨年、韓国の囲碁代表チームが実力を伸ばして中国との差を縮めることに成功したのが韓国にとっての希望である、という韓国の自己評価から、今年も経営規模を拡大していく兆しが見られる。韓国チームの監督陸鎮碩は、「特に陸成俊[誰? 人名?](18歳以下)に所属する将来世代の強化に力を尽くす。また、パク・ジョンファン、キム・ジソクの主導する研究会の質を向上する案についても、議論している」と話す。 しかし、朝鮮日報は、隠れた原石を見つけ出せなかったとしても、中国に追いつくのは容易ではないだろう、とも言う。中国では毎年20名の新人棋士が入段するが、今年は2003年生まれの棋士が多く出る見込みだ。一方で韓国の最も若い棋士でも2000年生まれである。焦眉の急で、天才を発掘し、早期教育を行う長期的・包括的なプログラムを打ち立てなければならない。

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